蕗狩軽便図画模型工作部日記

ー シュレマル工房 覚え書き ー

再録:「機玄」読みました

旧ブログ記事からの再録です。

 

2019年9月14日 (土)

「機玄」読みました

少し前にネットでごく狭い範囲ですが話題になっていた、西尾音吉著「機玄  機械美のルーツと機関車や機械を創る時の働き」を読んでみました。

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わたしには、かなりとても共感する部分が多くて、良い本だなと思います。写真が掲載されている著者の作品例も、まさに著者が言うような美しさが感じられて、わたしなりに非常に納得がいったという感覚でした。

読んでいると、一見脈絡なく饒舌に思いついた事柄をどんどんと書き連ねているように見えて、それぞれ著者の感性のなすところを手を替え品を替えなんとか読者に伝えようとしている感じが、いかにも関西人の思考や表現のスタイルを彷彿とさせて、自分が関西人だからこそ好ましく感じて読み進められますが、ひょっとしたら関西文化圏以外の人達には、何を言っているのかよく分からなかったりイラついたりすることもある文章なのかもしれないと思うところがありました。

それはともかく、副タイトルに「機械を“創る”時の」という表現をしているように、この方は、対象こそ鉄道模型や模型工作ですが、ファインアート寄りというか、徹底してクリエーション、それも感性に訴える美的感覚の方面から作品を制作するというスタンスを取っているように思います。

全体を通してそういう意味の表現が繰り返し繰り返し述べられます。その為に、制作や加工に当たって著者が理想とする表現方法や技法を事細かに記述してもいますが、これが一般的な技法解説とは全く違ってその通りやればできますというものじゃないのも読む人にとってはちょっと、というところかもしれません。

「機玄」という造語についても、あちこちでいろいろ言葉を変えて説明されていますが、「商品のモデルや玩具との相違」の章で、”合理的な機能構造の美を創作することは一般の造形美術の創作とは違うが、美の創作という観点から調和をなすことを「機玄」という(この部分、意訳)”というような意味のことが書かれていて、つまりそういう考え方のもとに“簡素な再表現”?による車両としての作品全体の”大調和”の美を追求したのだということのようです。

最後の方に、「実物の図面が無ければ良かった」という章があります。わたしには、これがほぼ著者の言いたいことを象徴しているようにも思えました。

確かに、正統派鉄道模型趣味人や主に実物鉄道趣味から模型を楽しんでおられる方々、それからあまり図画工作的?な模型づくりをしない方々にとっては、伝わるところがあるのかどうか、わたしにはよくわかりませんが、わたし自身にとっては、読む機会に恵まれてとても幸運だったなと思える本でした。

 

追記1;

以前にもこの手の話を読んだことがあるような気がして調べてみたら、自分で紹介していましたのでリンクしておきます。ひょっとするとこの方も「機玄」に影響を受けているのかもしれません。

sktrokaru.hatenablog.com

 

追記2; (参考)

今回、本の入手が難しかったので市の図書館に相談したら、国会図書館の蔵書をリクエストしてくれました。都立図書館や神奈川県の図書館にも蔵書があるようですが、送料がかかるので国会図書館からとなったようです。

国会図書館の書籍資料は禁帯出となる為、市立図書館内の司書さんから見える場所で閲覧させて頂くことになりました。

ちなみに都立図書館の蔵書も禁帯出のようです。図書館間の貸借にはかなりの時間と費用が掛かりますが、費用については原則として個人負担を求めることはなく、市の予算次第で可能かどうか判断されるそうです。

 

追記3; 2019.9.16

この本は、読む価値はないとされる方と、多いに得るものがあるという評価に分かれたのが、何故なのか疑問を持った、というコメントを頂いて、もう一度ちょっと考えてみました。

やはり、鉄道模型(工作)の楽しみ方でガラッと変わってしまうのじゃないかと思います。大雑把に言ってモデルエンジニアリング方面からの楽しみ方とアート方面からの楽しみ方の両方が出来てしまうのが鉄道模型の特徴ですから。

この本の内容が、テクニック的な面ではほぼ役に立たない情報がほとんどだという事も大きいでしょう。この本にそれを期待するとがっかりするでしょうし、製品加工品質議論的な観点からは、それこそアート系の人達と同じく手から生まれるもの、アナログ的なものを基本というか根底に考えて話を展開しているため、拒絶反応を示される方も多いのじゃないかと思います

わたしが「機玄」の中で一番特徴的な考え方だと感じたのは、「機能構造の美を創造する」というところと、それを「造形美の創造」と調和させる、というところです。

エンジニアリングの世界にデザインの要素を融合させるというのは、特に現在では当たり前のことだろうと思うのですが、「機玄」で提唱されているのは、エンジニアリングの世界とアートの世界を融合させるということなので、エンジニアリングの方面からもアートの方面からもそう簡単に納得出来るおさまり方をするとは思えません。

ただ、コンピュータが発達したおかげで、デザインアートの世界でもファインアートの世界でもアート側がエンジニアリングをツールとして認識、利用する場面は増えていると思います。しかしその逆はなかなかその性格からも感情的にも反発が強そうですし、そこのところが鉄道模型のモデルエンジニアリング派とモデルアート派?との軋轢の原因かなと想像しています。

プラモデルなどの世界では、モデルエンジニアリングの要素が比較的少ないのでそのような軋轢は起こらないのかもしれません。ラジコン飛行機や船の場合は鉄道模型よりもずっとモデルエンジニアリングに近いのでこれまた軋轢は少ないでしょう。ライブスチームもそうですね。

その点、鉄道模型というのはどうにも厄介な位置にあるし、その上写実主義的表現という宿命的な要素を抱え込んでいるのが一番の問題点なのだろうと思います。

まあ、ナローの世界では、立体ポップアート的なものも受け入れられていますし、メインラインものの世界に比べれば自由度も高く幾らかは軋轢も少ない状況にあるんじゃないかと思っています。

車両模型の場合はそれで良いとして、鉄道模型のもう一つの構成要素であるレイアウト、ジオラマの場合はどうなのでしょう?組み立て式の仮設レイアウトはともかくジオラマに類する作品はなかなかややこしいような気がします。

最近は素晴らしく精密で実感的なジオラマレイアウトが沢山発表されていますし、著名な作家も大勢います。ただ、それらの作品をアートだと言い切って良いのかどうかわたしにはよくわかりません。

そもそも写実的なジオラマにはあまり創作的なアプローチは向かないように思いますし、ジオラマ作者はある意味立体絵画のようなものとして、それも既製品やキットを上手に加工し組み合わせ配置する手法を多用しながら作品を制作していると思います。これはコラージュという技法、表現方法ともまた違うでしょう。

それに、写実的、実感的な表現を突き詰めていけば、行き着くのは特撮映画のミニチュアセットの位置付けと同じようになりそうな気もします。特撮ミニチュアセットがアートじゃないというのではなく、そういうジャンルのアートとして認識されるのかなということです。

先にも触れましたが、その点プラモデルの世界やドールハウスは、鉄道模型のように機能構造の動きをあまり気にしなくて良いことやフィクション(物語?)の世界を制作することも多いことが創作表現として有利に働いているように感じます。方向性を変えて見れば、例えば芳賀一洋氏の作品などは印象派風の絵画的表現をドールハウス作品に持ち込んでアートとして成立させている成功例なんじゃないでしょうか。

そういう意味では、やはり鉄道模型ジオラマというのは、なかなか中途半端な位置付けになってしまっているように思います。

それでも結局のところ、人それぞれに、鉄道模型にはいろんな考え方、いろんな楽しみ方があって良いと思います。

 

コメント

山本豊さんがTMS196号の「新幹線で思うこと」の中で「・・・だから極論すればだよ。僕は多少の写真を残して日本中の軽便鉄道は皆バスに喰われてなくなってしまえ、と思ってる。その時こそ僕のモデルは実物との腐れ縁を断ち切って活き活きと自己の存在を主張できるようになりゃせんか?・・・」と書いているのを思い出しました。

投稿: さくてつ | 2019年9月15日 (日) 07時32分

さくてつさま

実物の姿をミニチュアにして手元に置きたい、という欲求からの模型趣味がふつうなのじゃないかなと思うと、西尾氏の主張や山本氏のお話は、ほんとうに極論なのかもしれません。でも、マイナーであっても、他分野の方々から見ればまた違って見えるのではないかと思いたいです。

投稿: skt | 2019年9月15日 (日) 09時52分

 自分も読んでみたくて、メイルをお願いしましたが、メイルにトラブルがあるのでこちらに書きます。読んでみたかったのは、読む価値はないとされるかたと、多いに得るものがあるという評価に分かれたのが、何故なのかという事です。薄々は感じているのですが・・・。sktさんは図書館からの貸し出しで読まれているので、当方は、別な方法で入手してみます。

投稿: コン | 2019年9月15日 (日) 19時15分

コンさま

記事本文の最後の方に書きましたが、鉄道模型(工作)の楽しみ方でガラッと変わってしまうのじゃないかと思います。

テクニック的な面ではほぼ役に立たない情報がほとんどだという事も大きいでしょう。この本にそれを期待するとがっかりするでしょうし、製品加工品質議論的な観点からは、それこそアート系の人達と同じく手から生まれるもの、アナログ的なものを基本というか根底に考えて話しを展開しているため、拒絶反応を示される方も多いかと思います。

コンさんがお読みになって、どのような感想を抱かれるかとても興味があります。是非お読みになって、kkcに書評、ご感想を発表していただければと思います。

追記:

本を借りた経緯については、記事本文末尾に追記しておきました。

メールトラブルの件ですが、貴ブログ記事内の御要請に応じて送らせていただいたメールへのリプライはとどきましたが「このメッセージには本文がありません」というcautionつきの「re:タイトル」のみの空メールでした。念のため、自分自身のアドレスへ送信して確認しましたが正常に届いています。ひょっとするとメールの環境設定などがおかしくなっているかもしれないと思いますのでご確認ください。

投稿: skt | 2019年9月15日 (日) 20時49分 

西尾音吉さんのモデルでどうも馴染めないところというのは、「見えない床下は省略してしまってもよい」というように自分の見た印象で模型をつくっていくという考えですね。絵画では自分の感じたものだけ実際の情景から抽出して。キャンバス上に描くというのはアリだと思いますが、同じことを鉄道模型に持ち込まれたので違和感があるのだと思います。極論すれば窓のない箱に台車がついただけの客車やロッドのない蒸機もありということになると思いますが、それが芸術的表現なのか自己満足にすぎないかは微妙なところだと思います。ただし車両模型ではこういった極端な同意できませんが、レイアウトだと車両以外のものなら、それは許されるように思います。これは舞台で役者さんが実物を抽象化した舞台装置の前で芝居するのと 映画やテレビドラマでリアルな情景のなかで演技するのとの違いのようなものだと思います。

自分の模型では、そのプロトタイプから受けた印象に応じてディティールの密度を変えるということはやりますが、全体のバランスを崩さない範囲というのが鉄道模型のお約束ではないかと思います。自分の印象にないからといって、ディティールの密度がゼロに近い部分を車両模型につくるという考えには同意しかねます。

投稿: ゆうえん・こうじ | 2019年9月18日 (水) 00時14分