蕗狩軽便図画模型工作部日記

ー シュレマル工房 覚え書き ー

『マーダーボット・ダイアリー』読書開始 & AI(人工知能)などが主人公として登場するSFの話

久しぶりに書店でSFの文庫本を購入して読み始めました。

マーサ・ウェルズの『マーダーボット・ダイアリー』です。

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「人類が外宇宙に進出した遠未来を舞台に、クローン素材と非有機部品を複合した「構成機体」の人型「警備ユニット」である主人公=語り手が、彼女(といっても警備ユニットに性別はない)が契約関係にある人間たちを守るために奮闘する、テクノ・スリラー風味を加えた冒険アクション宇宙SFの大人気シリーズ」だそうです。

読み始めてすぐに、「確かにこれは好みかも。楽しめそう」と気を良くしました。

主人公は、おおざっぱなイメージとしては、映画『ブレードランナー』に登場するレプリカントや『エイリアン』に登場するビショップやアナリーのようなアンドロイドに武装戦闘能力とネット接続機能が備わった、意志と判断力を持つ高機能AIロボット(ただし機能や行動を制御制限する統制モジュールの自己ハッキングによって暴走=自由意思による自律的行動が可能になっている)で、物語的には、私みたいなどこにでもいるただのSF好きに馴染みのある設定なのが功を奏しているのかもしれません。

こういう、自意識を持つ人工知能を備えたロボットやアンドロイドという設定は昔も今も大人気で、映画やアニメにもよく登場します。やはり人間的なドラマを作りやすいからなのでしょう。

少し前は、アーマードパワードスーツのような戦闘用機械としてのロボットやコンピューターネット・サイバー空間をメインにしたSFが大流行りだったような気がするのですが、またこういう実体のあるAIロボットやアンドロイドの物語が復活してきているのかもしれません。

愛と涙と感動の喜怒哀楽にあふれた情緒的人間ドラマはどうにも苦手ですが、やっぱりそういうものの方が一般受けがいいのは当然の話なので、そういう物語がこれからもどんどんつくられていくのかなあと思います。

文庫本のページの文字を追いながら、そんなことを頭の片隅で考えているうちに、そういう感情を持ったロボットやアンドロイドの人間ドラマ?ではなく、人間の世界を自由に動き回れる身体を持たないけれど自意識を持ったAIの活躍を描いた作品も結構あることを思い出して来ました。

宇宙船の航宙操船や宇宙ステーションを統括管理する意識を持ったコンピューターなどのシステムが登場する作品です。

(思い出し始めたら止まらなくなったので、一旦読書を中断し、ブログ記事として纏めておくことにしました。なんでこう集中力ないんでしょう。歳のせいかなあ、と思いつつ、以下、こんなに頭使ったというか、記憶をほじくり返し書棚を参照したのは久しぶりでした。頭も老眼も疲れましたです。)

で、そういう話は、『2001年宇宙の旅』(1968年)のHALの例を出すまでもなく、昔から良くありがちなように思えますが、真正面から自意識、人格を持った存在として主人公に据え、描いた作品はあまり無いように思います。

そんななかで、まず思い出したのは、アン・マキャフリーの『歌う船』(1961年)それからそのシリーズ作品の『戦う都市』(1993年)です。ただしこちらに登場する主人公達は、一種のサイボーグでAIではありません。

『歌う船』シリーズは、選抜し特殊な訓練を施した重度障害者の脳をサイボーグ化してコンピューターシステムと接続し、生きた航宙操船システムや宇宙ステーション管理システムとしての任務に就かせるという設定で描かれたSF小説の名作です。女性作家特有の感性(などというと語弊があるかもしれませんが)もあるのでしょうか、人間ドラマとしての要素も豊富で、物語としても素晴らしく魅力的な作品として知られています。

このシリーズ、絶版となって久しいのですが、今の時代、設定そのものに色々と厄介な批判?が持ち上がりそうなことを考えると、復刻されることはまずなさそうな気がします。とても残念です。

この『戦う都市』 に登場する主人公、シメオンよりもずっと以前に、宇宙ステーションを統括管理する意識を持ったシステムが登場する作品として、ジェイムス・P・ホーガンの『未来の二つの顔』(1979年)が発表されています。

ここに登場するコンピューター人工知能プログラム、スパルタカスの、いかにもコンピュータ的、無機的なAI的思考と振る舞いに対する、感情を持つ人間側の対応(衝突?戦い?)の描写がとても面白い作品です。当時の最先端の人工知能研究?の雰囲気やそのイメージをうまく取り込んだ作品なのだろうと思います。

(余談ですが、この作品で初めてドローンという言葉とその概念を知りました。ドローンは決して複数のローターを使って飛び回るラジコン飛行機械を指す言葉ではありません!)

その他脇役として宇宙船の航宙操船・統括管理システムが登場する作品は本当にたくさんありますが、パソコンが普及し、またAIの研究が一般に知られるようになる以前は、HALのように船内に組み込まれてその端末がインターフェイスとなるようなシステムよりも、実体を持ったロボットやアンドロイドの姿で登場することがほとんどでした。例えば「鉄腕アトム」は、私達日本人に一番よく知られているその典型的な例ですね。

コンピューターネット・サイバー空間を扱った古典SF?とも言えるヴァーナー・ヴィンジの『マイクロチップの魔術師』(1981年)でも、ネット仮想空間の中で意識を獲得した人工知能プログラム?の姿はロボットのイメージで描かれています。

J.ディレーニイ、M.スティーグラーの『ヴァレンティーナ』(1985年)では、主人公のヴァレンティーナはどこまでもコンピューターネットを渡り歩く、意識を持ったミーム?プログラム?人工知能?として描かれていますが、最後のエピソードでは登場人物の身体にロードされて実行される経験をします。しかし、またコンピューターの中に戻って法的社会的に認められた人格、生命?として存在し続け、環境的にも自らの意志からもそうすることを選択します。この辺りはすこし新しい感覚かもしれません。ただ、その前提として人間の意識がプログラムとしてコンピューターに移されて実行されるというシーンが描かれていて、この辺りは古くからあるSFのアイデアの発展形という感じでしょうか。

その10年後に発表された、エイミー・トムスンの『ヴァーチャル・ガール』(1993年)では、女性作家ということもあるのかどうか、AIが搭載された美少女ロボットとその開発制作者のロマンチック?な冒険逃避行と成長の物語というストーリーになっていて、やはり人間のような実体を持ったロボットのイメージが人工知能と切り離せない設定で描かれています。

最近では、と言ってもかなり前ですが、パオロ・バチガルビの『ねじまき少女』(2009年)には主人公の一人として、柞刈湯葉の『横浜駅SF』(2015年)にも重要な役割を演じるキャラクターとして自意識、人格を持つAIを搭載したアンドロイドが登場します。

士郎正宗攻殻機動隊』(1989年)に登場するフチコマタチコマ)もAIロボット(多脚戦車)です。そして草薙素子やバトーは、『歌う船』の主人公達と共通するものがあるかも知れません。

(最近SF始め新作本を読んでないんで、情報がアップデートされてないのが情けないです。)

最近は、一般の人々にもAIが物理的にロボットやアンドロイドの身体のような実体を持たない純粋なコンピューターシステムとして認識されるようになってきたと感じます。

それでも映画やアニメ作品などでは、相変わらず人工知能とロボットやアンドロイドは切り離せない存在として描かれていることが多いですし、これからもきっとそうなのだろうと思います。

しかし、こうやって、年代を追ってこの手のSF作品を振り返ってみると、コンピューターや人工知能のイメージがどのように変遷してきたのかよく見えて来て興味深いです。