著名古典蒸気真鍮工作モデラー&ガラス工芸作家今野氏のブログ記事、ふう・・・・・ - konno-sendai’s diary に、こんな一節がありました。
「しかし、イベントが全くなくなると寂しいですね。模型作りは孤独な作業だけれど、それを肴に歓談する楽しみがあります。誰にも見せることのない模型なんて作っても仕方がないでしょうからね。ええ、ドヤ!をやりたくて皆さん作ってるんでしょ?」
うーん……やっぱりそうなのかな?
ということで、Twitterの機能を使ってアンケートを行ってみました。
結果はご覧のとおり。
フォロワーが沢山おられる方々にリツイートして頂けたお陰でなんとか傾向がわかるくらいの回答を頂けましたが、決してとても沢山の標本数とは言えません。「自分は(趣味の)模型工作をしている」と思う人の割合が意外に少ないということなのでしょうか?
結果は、「つくることに快感を覚えるから」がぶっちぎりですね。
しかし、
・「市販品にない車両が欲しいから」は選択枝に無いのですか?
・「作らないと欲しいモノが無い」が正確なんですが。
というコメントを頂いて、その選択肢を思いつかなかったのに自分でびっくりしました。
どちらの方も「快感を覚えるから」に含まれると解釈してくださったようですが、趣味であっても「つくる」には、目的と手段と二通りの意味があるのかもしれないとはじめて気付きました。
その他、「ついかっとなって」という理由をあげられた方もいて、この方も結果的に「快感を覚えるから」に票を入れてくださっていて、快感の覚え方も千差万別だなあと思います。
「人柄が信頼できるから」は、満更まるっきりの冗談とも言い難い「名誉選択肢」ですが、14%もありました。何事においても「人柄」?の影響は大きいのだなあと改めて感じさせられます(^^;
ちなみに、私の場合は、つくることに快感を覚えるからというのが一番で、その次がつくったものを見て興味を持って貰えたら、面白がってもらえたらいいな、とTwitterにあげたり自分の備忘録的工作日記ブログをほぼ一方的に公開したりしている感じですね。
ドヤ!なんて言えるようなものなどつくれるわけはなし、あんな程度でいいんだったら、あんなヤツにだって出来るんだからと感じてもらって、つくることに興味を抱いてもらえたら嬉しいな、くらいが精一杯でしょうか。
酒席は苦手ですし、コミュニケーションも絶望的に不得手ですし、模型工作を肴に歓談するということもそんなにはありませんし。
よくよく考えて思い巡らしてみると、どうも、ひたすら手を動かして何かが出来ていくこと、ときには自分の意思ではなくどんどんアイデアみたいなものが降りてきて形になっていくことが不思議で嬉しくて幸せで、その快感を繰り返し味わいたくて飽きずに模型工作をやっている、ということなのかもしれません。
追記 2021.2.1
自分の意思ではなくどんどんアイデアみたいなものが降りてきて形になり勝手に手が進む?ときの不思議な気持ちと快感って、文章、物語を書く人も、何故か突然登場人物が勝手喋り出し動き出してどんどん物語が綴られていくというような事を書いていたのを読んだような気がします。
ものや物語をつくるのとは少し違うのかもしれませんが、音楽演奏をする人やスポーツをする人などは、自分の僅かな経験と見聞きした範囲からですが、なんとなく、もっとそういう快感を簡単に頻繁に強烈に味わうことができているのじゃ無いだろうかという気がしてきました。
あれは一種の麻薬的な快感に近いのじゃ無いかと思いますが、どうなのでしょう?
どういう方法で快感を得られるかは人によって違うのでしょうが、快感に変わりはないと思うので、どれが良くてどれが悪いということもないと思います。
自分の場合、ものをつくることがその方法になってしまっているというのは……やっぱり良かったのかどうかよくわかりません。