蕗狩軽便図画模型工作部日記

ー シュレマル工房 覚え書き ー

再録:スクラッチビルドの価値評価と時間を買うという話

旧ブログからの再録です。

 

2014年5月29日 (木)

クラッチビルドの価値評価と時間を買うという話

鉄道模型雑誌のバックナンバーやウェブを見ていると、スクラッチビルドの価値、評価とか、なにをスクラッチビルドというのか、などというお話が目に入ります。コンペなどでもスクラッチビルドというのは大きな要素だったしもします。そんなこといままであんまりしっかり考えたことなかったなあなどと思いながら、ふと思いついてメモしたことをまとめてみました。

もともとほぼフリーのモデルしかつくらない私にとっては程度の差こそはあれ、スクラッチビルド的な工作は当たり前なのでいままでなーんにも考えたことがありませんでした。だってないものは一からつくるしかないんですから。

でもプロトタイプのある作品、特にリアリスティックなスケールモデルに関してはスクラッチビルトかどうかがすごく問題になるということのようですね。

スケールモデルの場合、実物をいかに精密にかつ印象をとらえて模型化したものであるかが基準になるわけで、そういうものを所有したいということが目的になる場合は、メーカーの製品であろうがキットであろうがフルスクラッチであろうが全く関係ないはずなのですが、ひとたびこれに「模型工作」という要素が絡むと一筋縄ではいかなくなります。

そういう精密なスケールモデルを作り上げる技能、工芸的手腕が工作をするモデラーの評価、作品の評価ということに関わってくるわけですね。だから究極的には、いかにして素材から精密な作品を作り上げられる技能を持っているかということが評価の基準になる。そこにキットとか製品の部品流用とか自分の手以外のもの、他人の技能によってつくられたものが混じってくるのは評価の内容にかかわってくるということなのだろうと思います。

また、技能に習熟するには時間がかかります。キットや製品、部品などを買うということはお金で他者の技能とそれをつくる時間を買う、ひいては技能に習熟する時間を買うということになるので、時間をかけて習得、熟練した工芸工作技能がその評価の基準であるスクラッチビルダーにとっては、他者の技能を買うことは自己否定になるといってもよいのだろうと想像します。

だからどこまでがスクラッチビルドなのかという議論がおこなわれたりするのでしょう。

しかしこの考え方、必ずしも工芸の世界やアートの世界に適用できるかというとそうでもないような気がします。

アートの世界ではたしかに作品をつくるために必要な技能に習熟するには時間がかかりますが、それだけでは良い作品はできません。才能がものを言います。そして、才能には時間は関係ありませんし、良い作品をつくるのに自分が熟練の技能を持っている必要もありません。熟練した技能を的確に理解し判断評価出来る能力は必要でしょうが。

たとえばガラス工芸で有名なエミール・ガレ。彼の作品は、彼のガラス工房の熟練した職人たちによって造形されたものでした。ガレは創造しデザインし職人に指示を与え、作品をつくり上げました。

明治の日本の七宝細工作家、並河靖之なども全く同じですし、卑近なところでは魯山人も一部の例を除きほとんど自分では窯を焼いてはいなかったといいます。

現代アートに至っては、マルセル・デュシャンのように便器に署名しただけでアート作品として成立させてしまった例だってあります。

つまりアーティスト、クリエイターが作品をつくる、と言う場合、彼らが持っている技能はかならずしも評価の基準にはならないといってもいいのじゃないかと思います。逆に、自分がつくりたいものをつくるために、そして作業時間を短縮するために、積極的に他者の技能を買って利用するわけですね。才能は自前、技能は買って間に合わせる。そこのところが決定的に違うのだと思います。

べつにスクラッチビルダーがアーティストじゃないとかアーティストより劣った存在だ、なんて言っているわけではありません。評価の基準となるところが違うのだろうなと思うだけのことです。

じっさい、作品の究極的な目的が実物をミニチュア再現したものというなら、そこにどれだけの技能を注ぎ込んでいるかどうかが一番の評価基準になるのは当たり前のことです。それでいいのです。問題はその基準を至上のものとして周囲にも押しつけがちなことなのじゃないかなと思います。

だからこそフリーのモデルなど判断の基準が無いということで、スクラッチビルダーの世界では、最初から評価に値しないなんて扱いになってしまうのでしょう。

裏を返してみると、主にフリーのモデルをつくっている人は他者の技能を買うことに抵抗はないように思います。技能のレベルや工作の巧みさは作品の評価の基準の一つではあっても作品の絶対的な評価にはほとんど関係ないし、ましてや作者の評価とは全く関係ないからでしょう。ただし作り手の才能に関わる部分を買ったり盗んだりしてつくったものを自分の作と称した場合、それ相応の報いを受けることについては言を待ちません。それはアートの世界と同じですね。

フリーのモデルのみならず、スケールモデルを楽しむ方々でも、精密で工芸的なモデルを自作する行為そのものが目的かつ評価の基準ではない方もたくさんいると思います。そういう方はスクラッチビルト作品かそうでないか、とか、どこまでがスクラッチビルドなのかなどにはおそらく無頓着でしょう。そういう方々は自分の目的とすることのために他者の才能と技能=時間をためらいなく買うと思います。それでいいのではないでしょうか?

もうひとつ、コレクターという人たち。彼らも製品を買うという行為によってそれを制作または製造した他者の才能、技能と時間、技能に習熟する時間、そしてある意味その製品を製作する設備まで購入していると言っていいのではないかと思います。

こう考えるとどんなものでも、どんなサービスでも、結局は他者の才能と時間を買っていることにほかならないのではとも言えます。こういうことを言うと、金さえあればそれこそ何でも手に入れられるというのと同じだ、という方もいるかと思います。

しかし、自分自身で身につける技能というものは金では買えません。金をつかうことによって技能の習熟に要する時間を短くする事は出来るかもしれないことは否定しませんけれど。つまり、そこにスクラッチビルドという行為の価値を評価する意味があるのだと思います。

追記;

読み返してみて、そういや模型工作の楽しみという視点、ごっそりぬけおちてるなあと気づきました。

そうなんですよね、模型工作の楽しみそのものが目的ということになると、出来た作品はどうでもよくなるわけで、つまりは試行錯誤していじくり回してもてあそんだ成れの果ての残骸か搾り滓であって、本人に取ってはまあどーでもよいわけ……でもないですね。

いちおうお楽しみの証拠記録としての意味もあるし、身近な人に何をやっていてそんなに楽しかったのかとか、こんなに他人にもアピール出来る?作品もたまにはつくれるんだぞ、私の道楽も人の役に立つ(鑑賞に堪える?)んだぞというプレゼンテーションにもなりますし、ま、それはそれでいいといえばいいということで、このあたりの議論の補足としておきたいと思います。